第7回『仮想地球』研究会/シンポジウム(一般公開)
宗教的地球観会議
-宗教的地球観、科学的地球観、そして『仮想地球』-
日時:2009年2月20日(金)13:00(開場12:00)〜 18:30
場所:京都大学稲盛財団記念館3F大会議室 アクセスマップ
主催:「仮想地球」研究会 (代表・荒木茂)
参加申し込み:「仮想地球」研究会事務局 virtual.earth.kyoto[at]gmail.com
参加申し込み:「仮想地球」研究会事務局 ※[at]を@にしてください
(どなたでもご参加いただけます。ふるってご参加ください。定員は100名です。参加費無料。)
趣旨:
第4回研究会でお招きした中沢新一氏には、神話的世界観や思考について伺うことができました。中沢氏の神話論では、科学と宗教は精神的営みとしての原型を神話に求める事ができ,神話の体系のなかで両者は共存し、人間と自然、生態、宇宙の調和を実現しているとされています。 そこで今回は、世界を見渡せば現在に至るまで大きな影響を持ち続けている、既成宗教の地球観あるいは世界観について、科学的地球観との関係を中心に、第一線の宗教研究者にご講演いただきます。
本シンポジウムを通じて、宗教と科学がそれぞれ宇宙や自然、生態、人間社会をデザインし、意味づける際の思考様式の違いや相補的関係を探ることができればと考えています。また、今後の地球における両地球観の意義と問題点について文理学際的に考えたいと思います。学術、科学あるいは人間社会にとって、宗教的地球観とはいったいどのように位置づけられるのか。科学にとって宗教的地球観は「仮想」なのか。また、「仮想」であるならば、それにどのような意義があるのでしょうか。
また、『仮想地球』研究会としては、宗教・科学の両地球観と『仮想地球』の関係について考える必要があります。現在、多くの学術研究プロジェクトは「構想」的思考を基盤とし、学術を通じたよりよき人間社会を志向しています。こうした状況下、学術研究の場における『仮想地球』研究会の営みは、よりよき「構想」のためのものなのか、それともFantasyであり続けることの意義を追求するものなのでしょうか。このように、「仮想」と「構想」を軸に両地球観について議論することを通じて、学術研究の場における「仮想地球」および『仮想地球』研究会の意義も明らかになると考えています。
プログラム:
開会の挨拶 荒木茂 (『仮想地球』研究会代表)
趣旨説明・司会 新井一寛 (京都大学アジア・アフリカ地域研究研究科研究員)
発表
芦名定道 (京都大学文学研究科教授) キリスト教
手島勲矢 (同志社大学大学院・神学研究科教授) ユダヤ教
仁子寿晴 (京都大学イスラーム地域研究センター客員准教授) イスラーム
田辺明生 (京都大学人文科学研究所准教授) ヒンドゥー教
鎌田東二 (京都大学こころの未来研究センター教授) 神道、仏教
コメント
柴田一成 (京都大学理学研究科付属天文台台長、教授) 宇宙物理
大野照文 (京都大学総合博物館教授) 地質、古生物
荒木茂 (京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科教授) 土壌
発表要旨:
「キリスト教的世界観と科学的世界観──地球はいかなる場所か」
芦名定道 (京都大学文学研究科教授)
伝統的な諸宗教は、古代以来、ときどきの世界観と結びつきながら、それぞれの宗教思想を展開してきた。近代の科学的世界観(地球観)の登場は、こうした諸宗教が前提としてきた世界観に大きな変更を迫ることによって、宗教思想にも少なからぬ影響を及ぼすことになる。キリスト教的世界観の変遷はまさにこうした事例の典型と言える。本発表では、まず、古代キリスト教的世界観の原型(三層構造の伝統的世界像)を取り出し、次にそれが、近代(コペルニクスからニュートンへ、そして大航海時代)の科学的世界観とどのように関わりながら展開してきたかを論じる。そして、最後に、現代のキリスト教思想にとっての世界観の意義と、新たな思想的取り組みについて論じることによって、宗教と現代科学との関係性をめぐる新たな可能性についても考察を行ってみたい。
「哲学と信仰の言葉のあいだで:中世ユダヤ思想の自然観・人間観の一断面」
手島勲矢 (同志社大学大学院・神学研究科教授)
21世紀に入り、地球環境そして人間社会の平和秩序が崩壊現象を起こしている。この世界の混乱は、さまざまな分野における近代革命の結果であり、同時に、その解決に際して、西欧流の、信仰と理性を分離する科学・フィロソフイアの言語的限界も露呈してきている。スピノザはデカルトの「我思うゆえに我あり」を「我疑い思うゆえに」と言い換えたが、現在の世界構想の多くの根拠は「我疑うゆえに」何かを証明することに努めた科学・フィロソフィアにあり、「疑う」言葉の世界構想である。だがユダヤ教の根本テキストであるトーラーは、神の世界構想を天より命じる啓示の言語で書かれており、それは「我信ずるゆえに」存立する信仰の言葉といっていい。中世ユダヤの思想家(マイモニデス他)は、フィロソフィアとトーラーの二つの言葉の接点を理性的に模索していくなかで、ユニークな言語観・自然観・人間観を展開させる。中世ユダヤのフィロソフィア批判を軸に「地球観」を語る言葉の反省を試み、信じる言葉と疑う言葉の対話、またその対話の中心にいる人間存在自体の連帯感についてなどを考えてみたい。
「イスラーム世界における地球観」
仁子寿晴(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科付属イスラーム地域研究センター客員准教授)
歴史的に見れば、イスラームの地球観が確固として存在していたというよりも、伝統的な宇宙概念、地概念(必ずしもイスラーム的であるとは限らない)と、翻訳を通じて導入されたアリストテレス=プトレマイオス流の宇宙構造、地球概念が絡みあうところで地概念、地球概念が形成されてきたと考えられる。またそれに加え、広義の「イスラーム世界」に居住するキリスト教徒、ユダヤ教徒もまた若干のずれはあるもののそうしたかたちでの地概念、地球概念を共有してきたふしがある。題目を「イスラームにおける」あるいは「イスラム教における」としなかった所以である。「イスラーム世界」には多様な地概念、地球概念があり、まとめることは容易ではないが、さまざまな分野の文献に広くあたりながら「イスラーム世界」の地概念、地球概念がどのような歴史をたどったのかを簡明に提示したい。
「ヒンドゥー教における多一論的宇宙観」
田辺明生 (京都大学人文科学研究所准教授)
ヒンドゥー教においては、絶対存在の本質たるブラフマン(梵)は、アートマン(真我、魂)という形態をとって、人間一人一人の内奥に分有的に存在するという。さらには、ブラフマンは、宇宙における生命の一切、生きとし生けるものすべてに魂として内在するだけでなく、非生命的物質においても遍在すると考えられている。多様な形において世界に内在し遍満する宇宙原理は、同時に一なる超越的存在でもある。つまりヒンドゥー教では、内在的多のなかに超越的一をみるのだ。これを「多一論」と呼ぶことにしよう。この世界に内在する多なる存在は、この世界を超越する一なる本質を有するのである。本発表では、こうした多一論の観点から、ヒンドゥー教において地球と宇宙をどのようにとらえているのかについて論じたい。
「いのちの道の伝承文化としての神道-仏教との比較の視点より-」
鎌田東二 (京都大学こころの未来研究センター教授)
「神道」の中核にある存在感覚をわたしは「おそれとかしこみ」だと考えている。南方熊楠は柳田國男が『遠野物語』を僅か350部自費出版した明治43年(1910年)に激しい神社合祀反対運動を展開して逮捕され、和歌山県田辺町の留置場にぶちこまれた。その頃彼は、「わが国の神社、神林、池泉は、人民の心を清澄にし、国恩のありがたきと、日本人は終始日本人として楽しんで世界に立つべき由来あるを、いかなる無学無筆の輩にまでも円悟徹底せしむる結構至極の秘密儀軌たるにあらずや」と主張し、合祀反対理由として、①敬神思想を弱める、②民の和融を妨げる、③地方を衰微させる、④国民の慰安を奪い、人情を薄くし、風俗を害する、⑤愛国心を損なう、⑥土地の治安と利益に大害がある、⑦史蹟と古伝を滅却する、⑧天然風景と天然記念物を亡滅する、などの理由を挙げた。それは一見ナショナリスティックな言説に聞こえるが、生物学と民俗学をエコロジーの観点から結びつけた南方にとって神社はいのちとくらしの記憶貯蔵庫にほかならなかった。神社を具体的表現として持つ神道は、ユーラシア大陸の東の果てにある日本列島の風土の中で自然発生的に生れ、外来思想や外来文化の多大な影響を受けながら歴史的に形成されてきた列島民の、「カミ」と呼ばれる存在に対する畏怖・畏敬の念に基づく祈りと祭りの体系であり、生活の流儀である。そこには、古来、この宇宙・万物・天地人の偉大さや大いさや尊厳を感じ取り、感応してきた道の伝承文化がある。わたしは、神と仏との原理的差異を、①神は在るモノ/仏は成る者、②神は来るモノ/仏は往く者、③神は立つモノ/仏は座る者、と考えてきたが、このシンポジウムでは仏教との比較も視野に入れて発表してみたい。
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