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第3回『仮想地球』研究会のおしらせ


第3回『仮想地球』研究会

シンポジウム
「映像作品制作と地域の論理・倫理—自然を撮る、人を撮る、かかわりを撮る—」

主催:「仮想地球」研究会 (代表・荒木茂)
日時:2008年6月7日(土)12:30(開場12:00)〜 17:30
場所:芝蘭会館別館 −国際交流会館− 研修室1
〒606-8302 京都市左京区吉田牛の宮町11-1 TEL:075-771-0958 FAX:075-752-4015
アクセス:市バス(31、201、206系統)の「京大正門前」から徒歩2分
http://www.shirankai.or.jp/facilities/access/

お問い合わせ先:
「仮想地球」研究会事務局[kazuhiroarai2005kyoto[at]yahoo.co.jp
※[at]を@にしてください 電話[090-9823-3344] FAX[075-753-7810]

趣旨:
 近年、映像機器の利便化・低価格化の影響により、調査地で撮影を行い、そこで得た映像素材をもとに、映像作品を制作する若手研究者が増えている。 しかし、それに比して、調査地でカメラを使うこと、調査地で撮影した素材を作品化することなどに関する現在的問題意識と「実践哲学」は深まっているであろうか。 地域を、自然を、人々を、そこでの様々なかかわりをカメラで撮ること、作品として表現すること、 その前提として「撮る、作品をつくる」ために自然や人々との関係をつくること、その関係のつくりかた、そもそも研究のために撮り作品化する必要はあるのか。 そうした根本的な問いについて、映像活用を志す若手研究者たちが学び、話し合う場はそれほどないのが現状であろう。
 そこで、本研究会では、徹底的なフィールド調査と濃密かつ繊細な被撮影対象との関係構築をもとに、地域とそこに在る自然、人々、かかわりを映像で表現することを通じて、 現地に内在する論理を伝え続けている、姫田忠義さんをお招きし、そうした根本的な問いについて考えたい。

プログラム:
第一部 姫田忠義作品上映+講演 12:30−14:50
司会:大石高典 (京都大学こころの未来研究センター特定研究員)
開会の挨拶:
荒木茂 (京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科教授)
姫田忠義 (民族文化映像研究所所長)
趣旨説明:
新井一寛 (京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科研究員)

1.作品上映
『椿山−焼畑に生きる』
規格:16mm・カラー・1043m・1時間35分
完成:1977.5.13
製作期間:1974.10〜1977.5

2.姫田忠義講演

※※休憩10分※※

第二部 総合討論:若手研究者の問いかけ 15:00−17:30
司会:新井一寛

1.問いかけ (自作映像作品の上映を含む):
岡本雅博 (京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科研究員)
ザンビアのザンベジ川上流域の氾濫原におけるロジの生業研究に従事している。 映像によって人々の地域に対する誇りを描くとともに、地域の発展に寄与したい。

大石高典
カメルーンのバクエレとバカを対象に生態人類学的研究を行っている。映像実践 を通じた被調査者・撮影者との新しいコミュニケーションと関係構築を模索している。

柳沢英輔 (京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科博士後期課程)
ベトナムの伝統楽器ゴングの研究を、サウンドスケープを通じて行っている。また、映像を活用したゴング文化の記録・保存、現地への研究成果還元を目指している。

紺屋あかり (京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科修士課程)
島嶼部における空間の身体化をテーマとしてサウンドスケープ研究を進めている。人間と環境の相互関係を有機的にとらえるための映像実践を模索している。

川瀬慈 (日本学術振興会特別研究員)
エチオピアの音楽.芸能に関する人類学映画制作にとりくんできた。人類学映画はジャズ・インプロである!

2.問いを受けて:姫田忠義

3.全体討論(フロアからの質疑応答を含む)

【姫田忠義さんのプロフィール】
1928年神戸生まれ。旧制神戸高商(現神戸商大)卒。54年上京して、新劇活動、テレビのシナリオライターのかたわら民俗学者宮本常一氏に師事。 61年から映像による民族文化の記録作業をはじめ、76年民族文化映像研究所設立。以来、同研究所所長。 89年フランス芸術文学勲章オフィシエール受勲。98年第7回日本生活文化大賞個人賞受賞。 徹底したフィールドワークを基礎とするその活動は、日本記録映画史においてもユニークな立場を築き、海外の研究者からは「映像人類学」と捉えられている。 フランス・コレージュ・ド・フランスとの共同作業やハーバード大学での講演・上映会など、姫田忠義と民族文化映像研究所のフィルムは世界各地にも出かけている。
(民族文化映像研究所 http://www31.ocn.ne.jp/~minneiken/ からの抜粋)

【上映作品について】
「椿山―焼畑に生きる」
撮影場所:高知県吾川郡池川町椿山
撮影時期:1975.4.〜1977.4

日本は、国土の70パーセントが山におおわれた山国である。従って、日本人の生活や文化を考える上で、山の存在を忘れることはできない。 このフィルムは、日本の山地帯ですでに縄文時代から行われてきたと考えられる焼畑耕作を、現在もつづけているひとつの山村の記録である。 高知県吾川郡椿山。現在の日本には、この村ほど本格的な焼畑耕作を伝えている村はもうない。1974年10月以来、足かけ4年にわたって、この記録活動が行われた。

このフィルムは、第一部と第二部に分れ、第一部は春から夏、第二部は夏から秋のようすをまとめている。ナレーションは、このフィルム記録の演出に当った姫田が行っている。 この記録に当って、記録者たちは次の2点に強く留意した。一つは、焼畑耕作というものを可能なかぎり綿密にフィルムに記録することであった。 焼畑とは、いったいどういうふうに行うものなのか、どんな作物を作るのか、その作物をどんなふうに収穫するのか、収穫した作物をどんなふうに処理するのか、 それら一連のことを、可能なかぎり綿密に記録しようとしたのである。そしてもう一つは、そういう焼畑耕作を今もつづけているこの村の人は、 いったいどういう気持ちでそれをつづけているのか、ということであった。

椿山は、戸数約30戸。四国山脈の最高峰・石槌山南方の山峡奥の斜面に、その30戸がひとかたまりになってある。 最も近い下流の集落まででも4キロ、池川町の中心部までは12キロも下らねばならない僻地である。 そしてその僻地性や、この村が安徳帝を奉じて落ちて来た平家の落人によってひらかれたとする落人伝説、或いは現在もなお焼畑耕作を行っているなどのことから、 同じ池川町の人たちの目にも特異な村と映っていたようである。他人事ではない、私たち自身の内部にもはじめはそれがあった。この村を特異と見る好奇の目はあった。

ふりかえってみると、もしも私がひとりで2回、カメラマンたちと10数回この村に通うことがなかったとしたら、おそらく初めに抱いた好奇の目をいまも持ち続けたであろう。 が、通うにつれて、私やカメラマンたちの内部からそれは消えていった。特にカメラマンたちといっしょに通うようになった2回目の1975年8月、 この村の人たちとともに強烈な雨台風の直撃を受けた経験が大きい転機になった。村人たちとともに必死で避難し、 これで椿山という村も終りかという絶望的な気持ちを村人たちとともに味わった私たちには、この村はもう特異な他人の村ではなく、いわば肉親の村と映るようになった。 村人たちもそれを感じとって下さったのであろう、その後は何事につけても積極的に教え話して下さるようになった。

私たちは無機物を対象としているのではない、生きた人間の生活を記録したいと願っている。そしてその記録が、少なくともその人たちの心の支えのひとつにでもなればと願っている。 ただ単なる学術記録ではなく、学術記録であるとともにすぐれた人間的な記録フィルムであることを私たちは熱望しているのだ。 そのためには、まず私たち自身が、対象者である人たちとそれこそ人間的な接触をなし得なければならないであろう。

椿山の村は、いたるところ30度を超す急傾斜面である。水田は全くない。集落のある斜面にわずかずつの定畑があるだけで、他はすべてその急斜面の山だ。 山の草木を伐り払い、その灰や山そのものの地力を頼りに作物を作る焼畑耕作以外に、どんな伝統的食糧確保の道があったか。 椿山の人たちは、その焼畑で作物をつくるとともに、製紙原料であるヤナギ(ミツマタ)を植えて現金収入を得て来た。 そして昭和30年代以降は、スギ、ヒノキを植え、次第に焼畑面積を減らして来た。この村でも、いま焼畑農耕は重大な時期に差し掛かっている。(姫田忠義)